代表プロフィール
プロフィール概要
名前 | 直野武志 |
生年 | 1968年9月生まれ |
出身 | 岐阜県各務原市出身(出生:鹿児島県屋久島) |
資格 | 宅地建物取引士、賃貸不動産経営管理士、ファイナンシャルプランナー |
障害 | 身体障害者手帳3級(右下肢大腿義足) |
影響を受けた人 ※受けた年順 ※敬称略 |
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自己紹介
はじめまして。くらしケア代表の直野です。
まずはじめに簡単な自己紹介をさせていただきたいと思います。
少しだけお付き合いいただけたら幸いです。
私は1968年に屋久島で生まれました。両親は仕事を求めて本土へと移り住み、数回の転居を経て私が3歳のときに岐阜県各務原市という街で暮らしはじめました。どこにでもいる普通の家庭の長男として暮らしていましたが、高校へ入学した1984年に人生が一変する出来事がありました。骨肉腫というガンにかかり右脚を失ったのです。私はその瞬間から障がい者になりました。
抗がん剤治療で髪は抜け落ち、同じ病棟で過ごした同じ病気の患者が亡くなるたびになんとも言えない悲しみと決して他人事ではない絶望感に苛まれていましたが、そんな私を救ってくれたのは退院後に再会した看護師の存在でした。(この話は長くなるので、むかしに書いたブログへのリンクを張っておきます。かなり古くて拙い記事ですが当時の思いは多少伝わるかもしれません。もしご興味を持たれましたらご覧ください → タップするとアメーバブログへ移動します)
17歳も終わるころ、心機一転、決意を新たにし、自立を目指すため就職活動を始めました。しかし就職活動には履歴書が必要であることを知らず、書き方がわかりません。いざ書いてみても書くことがない現実に気づきました。私は高校を出ていないのです。
仕事探しにはハローワークがありますが、当時の私はハローワークの存在を知りませんでした。とにかくどこに相談して良いかわからない。何もかもが手探りで社会資源や各種制度の情報にまったくたどり着けず、いつも心が折れそうでした。
あるとき就職情報誌というものを知り手に入れました。そして公衆電話から電話をかけまくりました。(当時の苦労話を書いたブログ→「パチンコ屋の店長に叱られたハナシ」)しかし私は学歴も職歴もない10代の障がい者。松葉つえをつかないと歩けないし、月に1回の通院も必要です。就職活動は難航し、面接にすらたどり着けない日々を送っていました。
そんなある日、ようやく面接にこぎつけたのは愛知県の木曽川町にある製造業の人材派遣会社。杖をついた私の姿を見た面接官は「座ってできる仕事を探してはどうか?」とアドバイスをくれたのです。私はそのアドバイス(情報)に従うことにしました。その結果、座ってできる製図のアルバイトに就くことができたのでした。
アルバイト生活は楽しかったです。しかし収入面は十分とはいえず思い描くような自立生活ができない。考え抜いた末に国家資格にチャレンジしようと宅地建物取引士試験を受験しました。それまで勉強嫌いでしたがこのときばかりは猛勉強、晴れて合格させていただき、アパートを紹介する賃貸不動産に就職、足の不自由な営業マンとして働き始め、ようやく経済的な自立への入口に立つことができました。その後、大手建設会社での勤務を経て2011年にくらしケアの前進となる会社を設立。空き家を活用し、障がい者や高齢者の方、子育て世帯の住宅支援をテーマに活動を始めました。
現在は、障がい当事者としての経験や視点を生かし、「明日が待ち遠しい暮らしの実現」をテーマに活動しています。
若かりし頃の私が苦労したように、障がい者が生活するうえで必要な「情報」へたどり着けずに苦労する方が、インターネットが発達した現代でもたくさんいらっしゃいます。私は「くらしケア」という事業を通じて、そんな情報難民ともいえる人たちをひとりでも減らしたいと考え、障がい者とご家族の総合的な相談窓口として支援を行っています。
くらしケアとして活動を始めて5年が経ち、現在は看護師を中心に約40名の仲間とともに600名を超える皆さまへとサービスを提供させていただいています。
私たちの活動に共感してくれる方は、ぜひ仲間に加わってください。あるいは愛知岐阜以外の地域で私たちの活動を再現してみたい起業希望の方も、ぜひ気軽にお問い合わせください。活動を通じて世の中の生きづらさをかかえた人たちを救えることができるなら、過去の私の苦労は意味があったと思えます。
看護の力で一緒に地域と社会を変えましょう!